【第 45 話】 ヨサック ◆skAMDOCpdQ 様

『旅館の旧館』

 

真夏のある日、涼を取る為にと上司のKさんがこんな話をしてくれた。

今から30年程前、新入社員だったKさんは、慰安旅行でとある旅館に泊まる事になった。
当時Kさんは、社長の親族である先輩からパワハラを受けていた。本当は旅行になど参加したくない。
しかも部屋は修学旅行のような大部屋。どうしても先輩と顔を合わせてしまう。だが断る事が出来なかったそうだ。

夜も更けて、酒の回った先輩は案の定絡んできた。Kさんと同僚の二人で肝試しをして来いと言うのだ。
場所は宿泊している旅館の旧館。
渡り廊下で新館と繋がってはいるものの、「立ち入り禁止」の看板があり封鎖されている。
流石にまずいでしょう、と説得するが先輩は聞く耳を持たない。
部屋に備え付けの懐中電灯を持たされて、とうとう旧館まで連れて行かれたという。

旧館は昔ながらの日本旅館といった様子だった。当然ながら玄関や雨戸も開かない。
これは無理ですよ、戻りましょう、とKさん達は口を揃えるが、先輩は入れる場所があると言う。
新館からは見えない方向に回り込むと、雨戸が壊れている所があった。ガラス戸は割れ、鍵が開いている。
ほらな、ここから行ってこい。先輩の言葉に二人は顔を見合わせた。
先輩は常識を欠いたところがあり、よく無茶な行動に出る人だった。
まさか雨戸を壊し、ガラス戸を割ったのは…
疑念を抱いたが何も言えず、結局強引に中に入らされたのだそうだ。

旧館の中は明かりひとつ無く、懐中電灯を頼りに板張りの廊下を進んだ。
しばらくすると曲がり角に差しかかった。もうこの辺で帰ってもいいんじゃないか、
そう同僚と話していると、奥から足音が聞こえてきた。
まずい、旅館の人だろうか。慌てて側の障子を開け、物陰に身を潜めた。
見つかったらただ事では済まない。緊張する二人がいる部屋の方へ、足音はどんどん近づいて来る。
明かりを持っているのか、障子にうっすらと影が映った。細身で長い髪。女性のようだ

 

しかし、この世のものでない事もすぐに分かった。
その女は逆さまになり、天井を歩いていたからだ。

息を殺して見つめる中、女はゆっくりと部屋の前を通り過ぎた。
ほっと胸を撫で下ろしたのもつかの間、またすぐにぎしり、ぎしりと音がする。
さっき姿を現した方から再び、女が天井を歩いて来るではないか。
女は同じ方向からやって来ては、部屋の前を通り過ぎるのを繰り返し続けた。
これでは部屋から出るに出られない。しかも、もしここに入って来たら…
そんな不安に、Kさん達はひたすら耐えたのだそうだ。

どれだけ時間がたったろうか。部屋の中は暗いが、耳をすますと外から鳥の囀りが聞こえる。
朝だ。いつの間にか女の往来も止んでいる。二人は涙ながらに喜びあったそうだ。
怯えながらも何とか侵入口まで戻り、やっとの思いで表に出たその時だった。
―――背後の暗がりから「ちがう」と女の声がした。

もう闇雲に走った事しか覚えていない、とKさんは言う。
気付くと新館の大部屋で、同僚も一緒に戻って来ていた。
早朝に大騒ぎで駆け込んで来た新人二人。睡眠を妨害された先輩はKさん達を怒鳴りつけた。
もちろん事情を説明しようとしたが、先輩は一言「知るか」と言って寝直してしまったそうだ。

慰安旅行から帰ってすぐにKさんは辞表を提出し、その後現在の会社に入社した。
同僚の方はそのまま勤め続けたそうで、しばらくの間Kさんと交流があった。
彼から聞いた所によれば、先輩は旅行後一年程で退職したらしい。

退職前の先輩はよく、天井を見ては怯えていたそうだ。

【了】