【第 36 話】 コソコソ ◆.PiLQRq.0A 様
『死神』
群馬県に住む叔母は、カカア天下を地で行くような人だったのだが、
60の坂を超えた頃から胃腸や心臓などを悪くしており、多くの病院にかかっていた。
しかし、多くの病院をはしごするのも疲れてきたので、総合病院一つでまとめてしまおうと考え、
今年の春に各病院への挨拶回りも兼ねて紹介状を貰って回っていた。
叔母が受診していた多くの病院の一つ。
2014年8月23日現在、絶賛営業中の病院なので名前は伏せるが、消化器内科を専門にしている病院である。
個人病院ではあるが、バブル期の真っ只中に立てられたこともあり、三階建てで中庭を有する立派な病院らしい。
二階以上は以前は入院施設として使われていたようだが、医師の減少や経営の悪化に伴い縮小され、
現在は入院患者の受け入れを止めており、一階の診察室の一つのみが機能しているとのことだ。
その病院を訪れた叔母は、病院を変える経緯を説明し、紹介状を貰えることになった。
その時、医師から「胃カメラを前倒しでやってみてはどうか?」と提案されたそうだ。
以前に胃潰瘍を患った叔母は、半年に一回、定期健診で胃カメラを受けていたらしい。
幸い、その日は患者も少なく、希望すればすぐにでも胃カメラを受けることができるそうだ。
あまり胃カメラが得意ではない叔母は一瞬迷ったが、胃カメラ挿入の際の苦痛は医師の腕によるところも大きい。
――転院先の病院で下手は医者に当たるくらいなら。
叔母は結局、その日胃カメラを飲むことを決めた。
胃カメラは思っていたよりもすんなりと終わった。
もう何度か経験して叔母のほうもコツが分かってきたのか、全く苦痛はなかったと言う。
胃カメラを飲むのが苦手な叔母は、毎回苦痛を軽減するために鎮静剤を使っていたらしい。
――こんなことなら局部麻酔でも良かったかも。
鎮静剤はぼうっとするので、自分で運転して家に帰るにはしばらくの間病院で休まなければならなかった。
叔母は電話で家人に帰りが遅くなることを告げ、待合室のソファに座り、何をするでもなくぼうっとしていると、
「二階にベッドがありますけど、そちらで休んでいかれます?」
そう看護師が声をかけてきた。
一旦は辞退したが「胃カメラの後はベッドで休まれる人も多いですから」という看護師の言葉に
「そういうことなら」と腰を上げた。正直なところ、横になって一眠りしてしまいたかった。
看護師に連れられ、二階へ上がる。
経営が苦しい病院とはいえ、待合室には世間話をしている老人が居て、受付には看護師が居た。
それとは打って変わって、二階は静まり返っている。
節電のためか、窓の無い、暗い廊下の両脇には緑色に光る非常灯だけがぼんやりと浮かび上がっていた。
階段を上がってすぐ左手の扉を看護師が開けながら、叔母を招き入れる。
「こちらのベッド、どれでもいいんで使ってください。しばらくしたら呼びに来ますから」
そう言って看護師は忙しなく階下へと降りていった。
叔母はそれを見送ると、入り口から一番遠いベッドに横になって目をつぶり、すぐさま眠りに落ちた。
……ガラッ、という音で叔母は目を覚ました。
病室の窓から差し込む光がオレンジ色になっており、
――あ、大分時間が経ったみたいだし、看護師さんかな
まどろみの中で叔母はそう思った。
一瞬覚醒した意識がまた眠りへと引き込まれそうになったとき、カツ、カツ、カツ、カツ、という足音が部屋の中を回り始めた。
――何をしているんだろう?
なんとなく起きるタイミングも眠りに落ちるタイミングも逸してしまった叔母はそのまま足音に耳を傾けた。
カツ、カツ、カツ、カツ、カツ。
――あれ、この音、看護師さんじゃない。
――看護師さん、スニーカーだったし、こんな硬い音はしない。
胡乱な頭が思い至った瞬間、叔母の寝ているベッドのすぐ脇で地面を蹴る硬い音が響き、叔母は思わず目を開いた。
叔母の目の前、それこそ息も掛かりそうなほど近く、
サングラスをして、白髪をオールバックにした初老の男の顔があった。
悲鳴を挙げようと叔母は息を吸い込む。瞬間、叔母の鳩尾の辺りを男が強く押した。
叔母の喉から「ぐぇっ」と声が漏れ、吸い込んだ息が押し出される。
必死になって手を退けようと叩くが、男は全体重をかけるようにしてなおも叔母の鳩尾を押し込んでくる。
腕を引っかき、両手で揺さぶって、必死になって男を退けようとするが、男はびくとも動かない。
――殺される!
叔母は本気でそう思った。必死で抵抗する叔母の顔を見つめ、サングラスの奥で男の目がぐにゃり、と歪んだ。
――この人、普通の人じゃない!
必死で抵抗する叔母が拳を握り締め、男のサングラスめがけて叩き込んだ。
叔母の拳が当たり、男が倒れる。叔母はすぐさま立ち上がって、転げるように階段を下りた。
血相を変えて待合室に飛び込んだ叔母はそこにいた看護師に事情を説明した。
「もう診療時間は終わってますから、患者さんは誰も残っていないですよ」
看護師がそう言って、叔母の居た病室を見に行ったが、部屋はもぬけの殻だった。
結局、寝起きに悪い夢でも見たのだろうという笑い話になり、叔母は恥ずかしい思いをしながら家路へと着いた。
それからしばらくして、総合病院へ転院した叔母は定期健診を受けることになった。
胃カメラは例の病院でしていたため、医師からは「今回はやらなくても良い」と提案があったが、
例の一件以降、どうにも胸焼けがする叔母はレントゲンを撮ってもらうことにしたと言う。
検査後、叔母は複雑な表情を浮かべる医師の前に呼び出されていた。
「胃の上部に影が見られます。詳しく検査してみないと分かりませんが……」
数週間前の胃カメラでは全く映らず、今回のレントゲンで見つかった影。
「恐らく何かが映りこんだんだと思います。レントゲンを見れば、胃の入り口まで影は来ている。
これが腫瘍だとすれば胃カメラで見落とすことはまず無いし、その時の胃の内部写真にも異常はありませんでした。
数週間でここまで腫瘍が肥大化することもありえませんし……」
医師も首を傾げながら説明し、叔母はその日の内に再び胃カメラを飲んだ。
影はガンだった。
この夏、叔母は胃の殆どを切除する手術を受け、すっかりやせ細ったにも拘らず、軽快に「死にはしないわよ」と笑っていた。
「だって、ガンを身体に入れている最中の死神を殴り飛ばしたんだもの」
【了】