【第 21 話】 かいじゅうのこども ◆dxakKNa1zM 様
『ガリ、ガリ…』
臨死体験をご存知でしょう。
死に面した人間が、息を吹き返す。
そして死と戦っていた間、その意識の端に焼き付けた景色。
ぽつり…ぽつりと、物語る…。
ある科学者が、臨死体験者に統計をとった。
それによると、臨死体験として語られる映像に、その人の意識が深く関わっている、というのはほんとらしい。
生まれた国と染まった文化、信じた宗教によって、語られる景色にはクラスタがある。
日本だと三途の川。キリストの国では、長い白い階段…。
所詮、朦朧とした意識の中で見た、深層心理の夢のようなものにすぎないと、ときに乱暴に片付けられる、ひそかな伝説。
それが、臨死体験。
果てのないトンネルの闇、いつかは己が吞み込まれて行く、その闇の、向こう側を、恐れ、ときに憧れて…。
では、そのあべこべは?
言うなれば、「臨生体験」。
死者が噂し合う、生者の世界の記憶…。
もっとも、古くから盆には死者が”黄泉帰り”、生者の世界に里帰りすると言いますから、死者達にとって故郷は死の世界であって、生者の世界は思いつきの旅行でしかないのかもしれません。
それでも僕らがそうであるように、旅から戻ったあとに、それぞれの旅した場所を肴に退屈をしのいでいるかもしれませんよ。
闇の帳から、死者たちの囁き声が聞こえてはこないでしょうか。
ガリガリ…ガリガリ…。
東大阪の画材屋に、絵の具を買いに行った帰りでした。
一見、ありふれた道でした。現場の変形は僅かなもので、そこにある違和感といえば、色彩だけでした。まるでチューブからひねり出したかのように血の飛び散ったガードレール。
今でも忘れられません。
兄はまだ二十歳でした。
兄には、恋人がいました。
2人について知っていたことは、そう多くはありません。
一度だけ、家の玄関にいたそのヒトを、ちらと見かけたくらいでしょうか。
兄の通夜の席で、喪服に身を包んだそのヒトと、二時間ほど話をしました。
2人の出会い。
つき合いだして二年だったこと。
彼女が引き継ぐ家業のこと。
兄が語った夢のこと。
お腹に宿した命のこと。
兄はいつも街へ出ていた。
兄のいない、キャンバスと、iMacと、粘土と、いろいろの作品のあるだけの空っぽの部屋は、だから普通の部屋のはずだったけれど。
僕にはそうは思えませんでした。
――部屋が寂しく思えたんじゃない。
感じるんだ。
布団に腰を埋めていると、背中に兄の息づかいを……。
もしかしたら生きていたときより、ずっと生々しい……――
葬儀も終わって大分落ち着いてきたとき、あのヒトにその話をしました。
彼女は何も言わなかったけれど、話を聞くその瞳は誠実でした。
彼女が母の家事を手伝っている間に、僕は兄の部屋に上がると、あの絵の描かれた画用紙を外しました。
晩ご飯を一緒にしながら、彼女に絵の話をしました。
絵のおおよそは出来上がっていたようでした。
だから僕にも、描かれているのが京都のある有名な寺の景色らしいことは分かっていました。
僕にとっての謎は、絵の具についてでした。
絵の中の、濃密な緑の世界に、バーミリオンを施すような余地は、どこにもないように思われました。
そして兄は絵を始めた子供の頃から、一度に二つの作品に取りかかることは決してしませんでした。
玄関でその絵を見せると、彼女は欲しいと言ってくれました。
僕は油絵の具のそこら一面に散らばったパレットと、まだそこに加わっていないあの赤い絵の具を渡しました。あのヒトもまた、絵描きでしたから。
ある晩、僕は彼女と2人で話をしました。
ずっと兄を憎んでいたことを。
母との喧嘩を治めるために包丁を持ちだしたことがあることを。
勉強をまともにやらず、母を泣かせてばかりいた兄を見下していたことを。
ある日を境に、口をきかなくなったことを。
僕が中学に上がった辺りの頃から、隣の兄の部屋からはガリガリと、何かを削る音がしていたことも、話しました。
彼女は、その音は多分油絵の具を削っている音だと言ったけれど、僕はそれの正体を、結局知らずじまいだった。
その頃から、僕も母も、兄の部屋をノックすることはなくなっていたから。
僕はただ、蛍光灯の下で、静かに兄を呪っていました。
食事も別々にとるようになっていたから、兄に対する憎しみとは、もはやその音に対する憎しみでした。不思議なことに僕はその音を、兄が家を開けることが多くなってからも、空のはずの部屋の向こうから、時折聞いたのでした。
二週間後、彼女は入院しました。
そしてひと月も経たないうちに、死産しました。
赤ん坊の、世界への扉は少しだけ開かれて、むなしくも閉ざされたのです。
死んだ赤子は、僕らの世界に何を見て、何を持ち帰ったのでしょう。
少しして、僕と母は彼女の実家に招かれました。
襖で仕切られただけの畳の空間が、古い農家における、彼女のプライバシーでした。
あの絵が額縁に嵌って、部屋の仕切りのところから僕らを見下ろしていました。
彼女は椅子を持ってくると、その上に立ちました。シャツから背中が見えるくらいに背伸びをしたあのヒト。
代わりにやりますとは言えずに、僕はただ見ていました。
彼女は絵を下ろし、部屋の障子を少しだけ開けると、光の差した壁に立てかけました。
絵は生まれ変わっていました。
対比の技法。
色のグラデーションを描くと、ぐるりと輪になる。
この環を色相環<しきそうかん>といいます。
色相環の、それぞれ反対側に位置する色同士を補色といって、お互いを引き立て合う。
そして、緑の補色は、赤。
彼女はあの赤い絵の具で、新緑の寺の風景のところどころをなぞったのでした。
それだけで、葉っぱの一枚一枚が魔法がかけられたかのように命を宿したのです。
描かれた景色の瑞々しい空気が、こちら側に流れ込んでくるかのようでした。
僕らは洋服を着たまま和室に八の字に正座したまま、しばらくの間、このすこしちぐはぐなこの時を過ごしました。
僕は気付かれないよう、横に視線を流しました。
通夜の席での、あどけない顔に似合わない喪服に身を包んだ彼女の、しかし黒の中で不思議と鮮やかに見えた彼女の、あの表情を思い浮かべていました。
彼女の横顔は薄暗くてよく見えなくて、線香の匂いと古い家の匂いに混じって、今風の香水の匂いがほんのわずかに漂っているだけでした。
彼女が学生としてこうして絵を描いていられるのも、もう長くはないのだと、ふと僕は思いました。
その日は九月でしたが、あの人の人生もまた、夏を終えようとしていました。
部屋照らす日の光が、赤みを帯びてきました。遠くで虫が鳴いています。
実りの秋が近づいていました。この家と田んぼを1人で継いで子を育てていく、彼女の将来のことを思いました。
暗闇の中に沈んだ彼女の横顔を、じっと眺めました。
彼女の白い横顔と、赤い唇を、じっと見つめました。
汗がぽたぽたと畳に垂れる音を、彼女は聞こえていたでしょうか。
ジーンズの上から太ももをつねって、獣の衝動と闘っていました。
背中から、彼女の名前を呼ぶ声がしました。
雨はいつの間にか止んでいました。
庭の木々や土のそれに混じって、飯の匂いがしてきました。
釜で炊いたであろうその匂いは、都会育ちの僕には、不思議と現実離れした、嗅ぎ慣れぬものに思えました。
彼女に続いて縁側へと歩きながら、振り返りたいという欲求を僕を押しとどめました。
あの絵はまるで、死と生を繋ぐ窓のようにも思えました。
けれど。どちらが生の世界で、どちらが死の世界なのでしょうか。
しわがれた声が僕らを呼んでいます。
僕は彼女の少し後ろを続きながら、彼女をろくに見ることができずに、庭のほうを眺めながら、兄の部屋から、生々しい”匂い”が消えたんです、と言いました。
死を見失うということは、生を見失うのと同じことなのかもしれません。
あの絵の緑が、赤い絵の具で息を吹き返したように。
明日の朝、この田舎の山道を駅まで歩いて行くことを、僕は思いました。待ち遠しいと思いました。
人生で一番清々しい朝になると、予感していました。
彼女と、兄の遺骨に手を合わせました。
いつものように呪いの言葉を吐き終わった後、少しだけ、兄に感謝をしました。
――ありがとう。僕は変われたよ。
きっと誰かが。
誰かが僕の緑のキャンバスから、赤い絵の具を削っていたのです。
ガリガリ、ガリガリ、と。その音がいつしか消えて。
チューブから、赤い絵の具がひねり出された。呪いは終わりました。
僕は、生まれていたことを知ったのでした。
あれから一年が経ちます。
あの日を迎えたら、僕は必ず、しかしこっそりと、こうつぶやくのです。
ハッピーバースデー。
【了】