【第 90 話】 異邦人 ◆VrA878BIoc 様

『パリの思い出』

 

実に、8年ぶりのパリでした。
8年前の僕は、欧州最大の夏のイベント 「ツールド・フランス」を観戦するために、パリへやってきたのでした。
「ツール・ド・フランス」とは毎年7月にフランス全土を使っておこなわれる、自転車ロードレースです。
真夏の23日間の期間中、選手はアルプスやピレネーの過酷なやまみちにも挑戦しなくてはなりません。また、全世界の自転車メーカーがこのときとばかりに、自社の製品をアピールする機会でもあります。
僕は、8月初旬にパリに到着したため、終盤のレースとシャンゼリゼ大通りでのゴールの瞬間を観戦できました。
その時、ツアーのコンダクターをしてくれたのが、カトリーヌだったのです。
彼女は、レースが行われる要所要所の町に宿を手配し、僕のためにやまみちでも安心のランドクルーザーをチャーター、運転手もしてくれました。
こうして、あの年の夏の一週間は、彼女カトリーヌと過ごしたのでした。

翌日、凱旋門の前でカトリーヌが用意してくれた観覧席で、ぼくは、ランス・アームストロングひきいるアメリカチームが歓喜の7連勝のゴールテープを切る様子を興奮のなかで、観ていました。
隣の席には、見知らぬ観客がいるだけで、カトレーヌの姿はありませんでした。
今朝、観覧席のチケットを僕に渡すと彼女は、車を返しに言ったまま戻っては来なかったのです。

 

あれから8年経ったいま、あの日の思い出を追って、またパリにやってきたぼくは、今度は一生忘れられない恐ろしい体験をすることになろうとは、思いもよりませんでした。
 
 空港から真っ先に僕が向かったのは、モンパルナス駅ちかくにある旅行代理店です。
8年前、カトリーヌが勤めていた会社です。まだ彼女がいることを期待して飛び込んだその店には、カトレーヌの姿は無いばかりか、彼女のことを知っている人は誰もいませんでした。
 仕方なく、最後に泊まった、あのカルチェ・ル・ラタンのホテルをとりあえず、今夜の宿に決めると、荷物を降ろし、シャワーを浴びていました。

 すると、懐かしい声がドアの向こうから聞こえてきました。
そうです、カトリーヌの艶やかな声です。間違いありません。
ぼくは、ぬれた裸のまま、バスルームのドアをあけていました。
そこには、すでに、いっしまとわぬ姿のカトリーヌが僕を見上げるように立っていました。
ぼくは、かのじょの髪の毛を頬を唇を愛撫し、口付けをしました。
そして、バスタブのなかで、かのじょの体のすみずみをぼくの唇で、あの日と同じように
愛撫してゆきました。
 

その後は記憶がとぎれて思い出せません。
しかし、意識が戻ったとき、ぼくが横たわっていたのは、バスタブではなく、真っ暗な地下室のような場所に置かれている箱の中でした。
ぼんやりとした頭でも、そこが、どんな場所なのかは想像が出来ました。
いま、ぼくの入っている箱は、間違いなく柩で、となりに寝そべっている硬いものは、
ガイコツにちがいありません。
裸のままのぼくでしたが、べつに寒くは感じませんでした。もしかすると、ぼくも死体になってしまったのか?そう思えたほどです。
しかし、触ると、ぼくの体にはまだ肉が付いていました。
起き上がって、壁を辿ってゆくと、鉄の扉が半開きになっていました。思い切って、
大きく開けてみると、そとから薄い明かりが漏れて中を照らし出しました。
心臓が飛び出しそうな光景を見てしまいました。
おびただしいガイコツやしゃれこうべが、このへやの床に積み上げられているのです。
そのなかで、ミイラのようになって箱の中から、僕を見つめている死体がありました。
髪の毛は抜け落ちて、めだまも皮膚もありません。しかし、その死体は、確かにこう言いました。
「見て欲しくなかった! わたしのこの姿 このよみの世界を!」
そして、柩から起き上げってこようとしています。

 

ぼくは、ただ、ただ恐ろしくなって、部屋の外に出て、扉を強く押し閉めると、明かりの見える方向に走り出しました。
どぶのような悪臭のする地下の通路を走り続けました。
とても長い間、走ったような気がします。
ようやく、通路の天井の隙間からお日様のあかりが見えるようになり、さらに進むとマンホールの鉄はしごがありました。そこをよじ登って、マンホールの蓋を開けてみると、
見覚えのある建物がみえました。地上の石畳の上に仰向けになっていると、一人の浮浪者のような姿の男が近づいてきて、一枚のシーツを裸のぼくにかけてくれました。
「ここはどこ」 礼を言う前に男に尋ねていました。
「ここは、シテ島、目の前がノートルダム寺院じゃ」男はやさしい声でそう答えると、
つづけて、
「あんたは、セーヌ川の下のカタコンブから逃げてきたのじゃね  生き返ったのじゃよ
おめでとう 」そう言って、大声で笑い、去ってゆきました。
 
 その後、寺院の救護室に案内されたぼくは、そこで、牧師さんから、対岸のカルチェ・ル・ラタンで、8年前におお火事があって大勢の犠牲者が出たことをしりました。
 カルチェ・ル・ラタンの名の通り、僕の宿のあった地域は、ラテン系の国々を始め、
世界から文化都市パリに集まってくる若者の町でした。
 おお火事があっても、犠牲者の大半は身元がわからず、無縁仏として、セーヌ川の地下にあるカタコンブと呼ばれる墓地に押し込められたのだと牧師さんは教えてくれました。
 8年前のあの日、彼女は僕の宿のあったカルチェ・ル・ラタンにもどったのだろうか?
そうだとするとなぜ? ぼくは未だにその訳がわかりません。
 

【了】